<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<!-- generator="wordpress/ME2.2" -->
<rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	>

<channel>
	<title>富永雅也理事長ブログ</title>
	<link>http://www.tominaga-message.com/blog</link>
	<description>医療法人財団白十字会、富永理事長のオフィシャルブログです。</description>
	<pubDate>Tue, 07 Feb 2012 23:47:34 +0900</pubDate>
	<generator>http://wordpress.org/?v=ME2.2</generator>
	<language>ja</language>
			<item>
		<title>天災それとも人災？（その20）</title>
		<link>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/186</link>
		<comments>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/186#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 07 Feb 2012 23:47:34 +0900</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[私から皆さんへ]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.tominaga-message.com/blog/archives/186</guid>
		<description><![CDATA[8月9日未明、再び広島のときとまったく同じあのコールサインV675で呼ばれるB-29がテニアン島から発進したことがキャッチされました。どこだかわからないけれど数時間後には日本国内のどこかに落とされる危険が大きいと判断されました。この重大情報は陸軍参謀本部梅津美治郎参謀総長にも報告されました。長崎への原爆投下の5時間も前に、原爆搭載機が日本に向かっていることが参謀本部中枢まで報告されていたのです。緊張は高まっていました。
硫黄島上空を経て、午前7時45分に屋久島上空の合流地点に達し、計測機とは会合できましたが、写真撮影機とは合流できず、40分が経過したため、スウィーニーはやむなく2機編隊で作戦を続行することにしました。午前9時40分、大分県姫島方面から小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、9時44分投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達。しかし、計3回の投下目標確認に失敗し、この間約45分間の時間と燃料を使ってしまいました。残燃料に余裕がなくなったばかりか、「ボックスカー」は燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えました。その間に天候が悪化、日本軍高射砲からの対空攻撃が激しくなり、また、陸軍芦屋基地から飛行第59戦隊の五式戦闘機、海軍築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機（零戦）10機が緊急発進してきたことも確認されたので、目標を小倉市から第二目標である長崎市に変更し、午前10時30分頃、小倉市上空を離脱しました。
]]></description>
		<wfw:commentRss>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/186/feed</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>天災それとも人災？その19</title>
		<link>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/185</link>
		<comments>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/185#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 25 Jan 2012 00:52:57 +0900</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[私から皆さんへ]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.tominaga-message.com/blog/archives/185</guid>
		<description><![CDATA[8月6日の広島原爆投下作戦において観測機B-29「グレート・アーティスト」を操縦したチャールズ・スウィーニー少佐は、テニアン島に帰還した夜、第二の原子爆弾投下作戦の指揮を執ること、目標は第一目標が福岡県小倉市（現北九州市）、第二目標が長崎市であることを告げられていました。その時に指示されていた戦術は、1機の気象観測機が先行し目標都市の気象状況を確認し、その後、護衛機なしで3機のB-29が目標都市上空に侵入するというものでした。この戦術は、広島市への原爆投下の際と同じものであり、日本軍はこれに気付いて何がなんでも阻止するだろうとスウィーニーは懸念を抱いていました。
徹底抗戦を主張し、広島市壊滅の影響をできるだけ小さくするため、表向きは原子爆弾と認めようとしなかった陸軍参謀本部も、その内部ではそれを認めていました。それどころか、広島への原爆投下の2日後の8月8日、特殊情報部の中庭で参謀本部による表彰式が執り行われました。原爆搭載機のコールサインを突き止めた功績が評価されたのです。「V600番台のB-29が最も恐ろしい原子爆弾を積んでいることが判明した。同じようなコールサインの飛行機が今度飛べば、全部追跡して撃滅するから」とねぎらいの言葉をもらいました。
]]></description>
		<wfw:commentRss>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/185/feed</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>天災それとも人災？その18</title>
		<link>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/184</link>
		<comments>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/184#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 10 Jan 2012 09:45:58 +0900</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[私から皆さんへ]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.tominaga-message.com/blog/archives/184</guid>
		<description><![CDATA[その直後の昭和20年7月16日、米国は人類初の原爆実験に成功します。米国ニュ―メキシコ洲で爆発力の強大な新兵器の開発に成功したとのニュースは、断片的ながら情報は参謀本部にも伝わりました。日本の多くの研究者がこれは原子爆弾の製造に米国が先に成功したと判断したのに、陸軍上層部は一人もそれを認めようとはしませんでした。そして、通常100機、200機と大編隊で飛んでくるB-29と違い、単機もしくは数機という奇妙な行動をとる新顔600番台の “特殊任務機”の目的も不明とされたままでした。
8月6日午前3時、陸軍特殊情報部はV600番台のコールサインの特殊任務機が日本に向かっているとの情報に緊張感が高まっていました。これが、「エノラ・ゲイ号」でした。豊後水道から広島上空へ深く侵入しつつあるという、参謀本部には伝わっているはずの情報はなぜか広島の司令部には伝わらず、空襲警報すら出されませんでした。
　8月6日午前8時15分、広島市上空570メートルで原子爆弾が炸裂しました。無防備の多くの市民が犠牲になりました。「あのとき、空襲警報さえ出ていたら」、地下壕の中で運よく生存し、地獄のような地上の光景におののきながらも、懸命に負傷者の救護に当たる人々はそう思っていました。どうして空襲警報は出されなかったのか、今も理由はわかりません。
　8月7日になっても陸軍はそれを原子爆弾と認めようとはしませんでした。「米国は原子爆弾とか言っているようだけれども、非常に力の強い普通の爆弾とも思われる」とのコメントを出しています。陸軍が、有本精三中将を長とする調査団をつくり、DC3型輸送機に乗せて広島に向かわせたのは8月8日午後でした。その調査の大任をまかされた一行のなかに、日本の原爆製造に関わった仁科博士の姿もありました。
　輸送機は夕暮れの広島上空に達し、何度も何度も旋回しました。博士は窓にぴったり顔をくっつけて、食い入るように地上を見つめていた。そしてしばらくして、「これは、原子爆弾です」と口の中でそう低くつぶやいたといいます。しかし、悲劇はこれだけでは終わりませんでした。
]]></description>
		<wfw:commentRss>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/184/feed</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>天災それとも人災？その17</title>
		<link>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/182</link>
		<comments>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/182#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 20 Dec 2011 08:50:19 +0900</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[私から皆さんへ]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.tominaga-message.com/blog/archives/182</guid>
		<description><![CDATA[ところが、7月の20日から、400番台でも、500番台でも、700番台でもない、600番台の新しい航空隊がちょくちょく日本に来ると。「おや、おかしいな？」と思った人がいて、これを丁寧に追っかけていったのだそうです。そしたら、その飛行機の番号がほかの飛行機とは違う。ほかのB29は25V、425Vとか二桁三桁なのに、この新顔は一ケタの2V625とか、5V655、8V632というようなコールサインで飛んでくる。しかも、一機で飛んでくる&#8212;&#8211;何か新しい部隊が出てきたのだろうか、と思っていたようです。陸軍参謀本部情報部第二部の堀栄三少佐は600番台の正体不明機を特殊任務機と呼び、その情報は参謀本部の上層部まで伝えられていました。
陸軍参謀本部は米国が原爆開発を推し進めていることを早くから知っていました。そして、昭和18年春、東条英機陸軍大臣は米国の原爆開発は相当進んでいると判断し、日本も後れを取らないようにと理化学研究所の仁科芳雄博士らの研究陣に開発を急がせています。しかし、昭和20年6月末には空襲で原爆の開発を続行する環境ではなくなったため、陸軍上層部は、その開発を断念しました。そして、原子爆弾開発に関し「米国も為し得ざるものと判明せり」と全く根拠もなく決めつけていました。大きなプロジェクトを止めるに当たり、そしてそれが日本にとって危機的な状態をもたらせることが明白なため、止める理由付けが必要になっただけのことでした。起こっては困ることが起こると、決まって日本の指導者は起こらないものと決め付ける習性があるのはこの一件でも明らかです。

]]></description>
		<wfw:commentRss>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/182/feed</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>天災それとも人災その16</title>
		<link>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/181</link>
		<comments>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/181#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 06 Dec 2011 10:26:31 +0900</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[私から皆さんへ]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.tominaga-message.com/blog/archives/181</guid>
		<description><![CDATA[（あの戦争と日本人　半藤一利著、平凡社　2011年8月放送　NHKスペシャル　原爆投下-活かされなかった極秘情報-、ウィキペディアより）
　大戦末期の昭和20年7月、米国はウラニウム235爆弾、プルトニウム爆弾の原子爆弾2個を実戦配備していました。その少し前の5月29日には占領したテニアン島にB-29爆撃機15機が飛来し、原爆を投下するための訓練を8月までにたっぷり積んでいました。「カボチャ」と当時暗号名で呼ばれていた4.5トンのすごくでかい爆弾をただ一個だけ積んで、銃座を外したり防備を外したりしてできるだけ軽くして、太平洋上を遠くまで飛んでいく訓練を積んでいました。原爆部隊は編隊を組まないで一機で飛びます。護衛の飛行機もつきません。
　実は、日本陸軍はこのカボチャ搭載機について、かなり調べていたといいます。読売新聞が出した「昭和史の天皇」に詳細が書かれていますが、陸軍中央通信調査部というのが調布にあって、日本にやってくるB-29を丹念に観察しているのです。昭和20年7月の時点で、B-29はマリアナ諸島に600機いてサイパン島にいるのはみんな400番台の番号をつけている。415とか426とか。グアム島にいるのは500番台で、テニアン島は700番台の飛行機だと一覧表を作っていました。だから、B-29相互のコールサインを無線でキャッチして718なんていうと、ああ、これはテニアン島から来ている、と分かっていたのです。
]]></description>
		<wfw:commentRss>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/181/feed</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>天災それとも人災？その15</title>
		<link>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/180</link>
		<comments>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/180#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 22 Nov 2011 08:22:33 +0900</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[私から皆さんへ]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.tominaga-message.com/blog/archives/180</guid>
		<description><![CDATA[　6.日本人の通弊（幕末史、半藤一利著、新潮社より）
太平洋戦争の時もそうでした。日本人は往々にして、確かな情報が入ってきていても、起きたら困ることは起きないことにしようじゃないか、いやこれは起きないに違いない。そうに決まっている、大丈夫、これは起きないとなってしまうのです。昭和二十年八月のソ連による満洲侵攻です。シベリア鉄道を通ってソ連の兵力が、どんどんソ連国境に集結していることが、その年の春位から分かっていました。日ソ中立条約の一年後の破棄は四月に既に言ってきていますから、攻撃の可能性はあるのではないかということは、軍の中枢部のたいていの人は予測できたでしょう。とりわけ参謀本部が分からないはずはないのですが、「今ソ連に攻めてこられたらお手上げだ。処置なし。」、だから起こっちゃ困るんだ、起こっちゃ困ることは起きないのではないか、いや起きないのだ、というわけでソ連は来ないことに決めたのですね。八月九日午前零時をもってソ連が一気に満洲の国境を越えて攻めてきた時、参謀次長・河辺虎四郎中将は「ああ、我が判断は誤てり。」と日記に書きました。判断の誤りではなく、そういう風に思いたかっただけなのです。
自分たち日本国民を守ってくれるはずの満洲軍が我先にと逃げ出し、ソ連軍に蹂躙された入植者たちの悲劇は、想像を絶するものです。嗚呼、これも人災。

]]></description>
		<wfw:commentRss>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/180/feed</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>天災それとも人災？その14</title>
		<link>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/178</link>
		<comments>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/178#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 08 Nov 2011 23:32:29 +0900</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[私から皆さんへ]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.tominaga-message.com/blog/archives/178</guid>
		<description><![CDATA[昭和14年8月にこの戦いが終わって二年半がたたないうちに、日本は太平洋戦争に突入します。低水準の火力能力がわずか二年半で向上するはずはありません。ノモンハン事件の本当の教訓は全く顧みられなかったわけです。それどころか、この負け戦を直接指揮した作戦参謀の一人、服部卓四郎中佐は、後の昭和19年7月にサイパン島が陥落し、日本は見る影もなく撃ち破られたとき、参謀本部作戦課長であった同大佐は「サイパンの戦闘でわが陸軍の装備の悪いことがほんとうによくわかったが、今からとりかかってももう間に合わない」といったそうです。ノモンハンの時にすでにわかっていたではないかと言いたくなるのですが、いずれにしても日本陸軍はこれだけ多くの犠牲を出しながら何も学びませんでした。口径が小さくて弾の飛ばない三八式歩兵銃は相手の自動小銃と比べて明らかに劣っているのに、ノモンハンの“反省”も活かされず、その後の太平洋戦争でも広く使われました。三発撃つと時間のかかる新しい弾込めをしなければならない、つくる能力がなかったわけではないのに、なぜ日本は新しい銃をつくらず最後まで三八式歩兵銃で戦ったのか、半藤氏は旧陸軍の人に理由を聞いたことがあるそうです。その答えは「実は三八式歩兵銃は四十年間に一千万挺も作った。三八式歩兵銃の弾丸も山ほどどころではなく、いくら使っても使いきれないほど作ってしまった。これがある間はとにかく使わなければならなかったんだ」と。そんなばかな考えで国家の運命を賭した戦争に突入したのですかと、半藤氏は思わず天を仰いだそうです。嗚呼、これも人災。
]]></description>
		<wfw:commentRss>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/178/feed</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>天災それとも人災？その13</title>
		<link>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/177</link>
		<comments>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/177#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 25 Oct 2011 09:08:38 +0900</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[私から皆さんへ]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.tominaga-message.com/blog/archives/177</guid>
		<description><![CDATA[5.歴史に何も学ばなかった日本人（昭和史　1926-1945　半藤一利著、平凡社、及び　　　あの戦争と日本人　半藤一利著、文芸春秋より）
　昭和14年5月中旬から8月末、満州西北部のノモンハンを中心とする広大な草原で旧関東軍プラス旧満州国軍と、極東旧ソ連軍プラス蒙古（モンゴル）軍が大激戦を行いました。この戦いをノモンハン「戦争」といわず「事件」としているのは、互いに宣戦布告しているわけではなく、お互いの領土内侵略をめぐる単なる国境紛争でしたが、両軍とも大軍を出して戦うことになりました。戦闘は日増しに拡大し、日本側は58,925人が出動して戦死、戦傷、その他19,768人と1/3が死傷しました。普通、軍隊は30％がやられれば壊滅状態でそれほどの大損害を受けました。旧ソ連軍も大きな損害を受けるわけですが、旧ソ連軍が最新鋭の戦車、重砲、飛行機を次々に投入してくるいわゆる近代戦を仕掛けたのに対し、旧日本軍は銃剣と肉体をもって白兵攻撃でこれに応戦したわけで、まことに惨憺たる結果となりました。当時の日本兵の装備は、明治38年にできた三八式歩兵銃、当時ですら35年も前からある旧式の装備で、近代兵器で身を固めたソ連の兵隊と立ち合ったのです。
戦いが終わって、「ノモンハン事件研究委員会」が設置され、軍による反省が行われました。教訓として、これからもますます精神力を鍛える必要がある、ついてはもうひとつ水準の低い火力戦の能力を向上させた方がいい。約2万人が死傷した負け戦の戦訓がこれだけで済ませられました。
]]></description>
		<wfw:commentRss>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/177/feed</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>天災それとも人災？その12</title>
		<link>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/176</link>
		<comments>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/176#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 13 Oct 2011 04:07:40 +0900</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[私から皆さんへ]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.tominaga-message.com/blog/archives/176</guid>
		<description><![CDATA[軍艦を別にすれば原子炉を動力源とする船を作った国は少なく、旧ソ連、アメリカ、西ドイツ（当時）に続く世界で4番目であったそうです。むつはあわれにも16年間にわたって日本の港をさまよいました。当時の社会党は原子力船から漏れる放射能が陸奥湾に溜まると原子爆弾なみの爆発が起こりうるなどというようなデマを流しましたし、マスコミも放射能漏れを不必要に騒ぎ立てました。むつに搭載された船舶用原子炉は諸外国のそれと比べて性能は良く、単に遮蔽に問題があっただけで、その改修後は不具合は指摘されていませんでした。しかし、これによって日本は原子力船の製造は不可能として、永久に開発を放棄しました。
しかし、みなさん。本当にこれでよかったのでしょうか。もともと調査研究用の実験船が少量の放射線漏れが出たためにその開発を永久に放置した結果、どんなことが起こっているでしょうか。
日本は資源に乏しく、四方を海で囲まれる海洋国家で、貿易・通商で生計を立てる国です。未来永劫これは変わりません。核燃料を一回搭載すれば何年も無補給で動ける船を開発改良すれば、今後の船舶輸送に大きな恩恵を与えたことでしょう。技術を転ずれば原子力潜水艦の開発にも応用できたでしょう。しかしこれを永久に放棄した結果、原子炉動力船は生まれなくなった。東日本大震災が起こり、中国やロシアは日本に対し医療救援隊の派遣を早速申し出てくれました（その規模は四川大地震時に日本が出した救援隊と比べるとはるかに小さいものではありましたが）。しかし、この両国は自衛隊24万人中10万人が東北に救援で出ているときの日本の国防がどうなっているのか、この大わらわの最中にテストを企てているのです。まさに、右手で握手、左手にハンマー。ロシアの軍用機が領空侵犯すれすれの空域に出現し、航空自衛隊は度々スクランブルをかけました。中国からは尖閣列島付近に例の「魚政」が出現、日本の海上保安庁の巡視艇では防げない領海侵犯、それは原子力潜水艦によるものです。日本の「どんガメ」（失礼）海上自衛隊のディーゼル艦ではとても追いつけない速度、そしてとても潜れない深度を、矢のような速度で疾走する侵犯艦、これに対し体を張って領海侵犯を防ごうとする自衛隊員の無念さを皆さん、理解できますか？本当に原子炉動力船を放棄してよかったのでしょうか。
そんなわけで今回の原子炉の事故を何とか日本の科学技術力で解決してほしい、安易に原発潰しに加担しないで長期的かつ冷静な視点でご判断いただきたいと切に願うところです。
]]></description>
		<wfw:commentRss>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/176/feed</wfw:commentRss>
		</item>
		<item>
		<title>天災それとも人災？その11</title>
		<link>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/175</link>
		<comments>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/175#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 27 Sep 2011 08:47:39 +0900</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[私から皆さんへ]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.tominaga-message.com/blog/archives/175</guid>
		<description><![CDATA[中曽根元首相が指摘しているように、科学技術立国の日本は大災害そして大津波による原発事故とどう戦い、どう克服していったかを見せられるか真価が問われていると思います。そしてこれは日本にしかできないこと、免震重要棟で不眠不休で頑張っている技術者たち、「福島フィフチィーズ」と欧米から注目・賞賛されている原発事故現場で体を張る作業にあたる人々、何とか日本の未来のために頑張ってほしいと思います。
「原発は要らない」と訴えるデモが散見されます。原子力に代わるエネルギーが安価で供給できるならともかく、太陽光や風力発電は現在のところ電力需要を補うにはあまりにも頼りなく、かといって二酸化炭素を大量に排出する火力発電の比率をさらに大きくすることは地球環境の面から許されることではないと思います。
放射能アレルギーである日本ですので、こういう大事故が起こってしまうとそういう心理状態になることは無理からぬことかもしれませんが、今後のエネルギー需要をどう賄うのかとい冷静な観点から判断していただきたいものです。
アレルギーといえば、返す返す残念であったのが原子力船むつの廃船でした。もともと調査研究用として1963年、なんと東京オリンピックの前年およそ半世紀前に建造計画が決まりました。1972年に核燃料が装荷され、日本初の原子動力船として1974年に出力上昇試験が太平洋上で開始されましたが、試験開始早々の同年9月1日放射線漏れが発生し帰港を余儀なくされますが、地元むつ市民は放射線漏れを起こしたむつの帰港を拒否したため、長い間漂泊しました。以後16年にわたり日本の港をさまよい改修を受け、4度の実験航海後1992年1月すべての航海を終了し、廃船が決定されました。これ以来、日本は原子力動力船の計画、建造や購入を放棄してしまいました。

]]></description>
		<wfw:commentRss>http://www.tominaga-message.com/blog/archives/175/feed</wfw:commentRss>
		</item>
	</channel>
</rss>

